『坊っちゃん』で語る学校のいま・むかし

夏目漱石の『坊っちゃん』は、明治時代の学校を正確に描写している。この姿と平成のいまを対比して、学校・教育を見つめ直していこうと思う。

閑話休題 谷根千の散策

 昨年の暮れ、漱石ゆかりの地「谷根千(やねせん)」周辺を仲間たちと歩いてきました。ご存知でしょうが、「谷根千」は「谷中・根津・千駄木」を言います。どうも、雑誌の編集者が名付け親のようです。

 谷中は、東京の台東区。根津と千駄木は文京区ですが、下町情緒のある地域として、外国人観光客にも人気がある地域です。

 漱石の関係小説にも触れながら、歩いてきたお話しを少しばかり紹介します。

1、東京大学

 「谷根千」に入れるのは違うかもしれないが、漱石とは切っても切れない関係にある学校が、この「東大」だ。明治時代の近代大学として出発してから、その名称は「東京大学帝国大学東京帝国大学東京大学→  国立大学法人東京大学」と変遷してきた。漱石は、「帝国大学」を卒業したわけだ。

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     加賀前田家の赤門           正門からつづく銀杏並木

 徳川斉昭の娘を迎え入れた際に建造した「赤門」。漱石も、きっと何度もくぐったに違いない。でも、昭和時代の「銀杏並木」を見て、「とめてくれるなおっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」なんていう橋本治氏のコピーは、知るよしもない。いや、いまの若者たちにアンケートしても、「意味わかんねえ!」って言われる。

 「学園紛争・闘争」も、ある一定年齢の人たちだけの思い出話に近づいているかもしれない。なんてたって、すでに45年以上が過ぎている。その証拠に、「安田講堂」もとても静かだった。学生の火炎瓶(これは古語か?)VS 機動隊の放水(こちらは最近、台湾あたりであったか?)の大攻防戦をリアルタイムで見ていた記憶がある私にとっても、遠い過去の映像だ。漱石先生は、天国からどんな風に見ていたのかなあ。

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     安田講堂 この時計台の上から火炎瓶が、下から放水が行われた

2、三四郎池

 いま朝日新聞では、「こころ」に続いて「三四郎」が連載されている。

 主人公の三四郎が思いを寄せることになる「美禰子」に初めて出会うシーンは、この池だった。もちろん、この小説から「三四郎池」なんて呼ばれたわけだ。そんな風にこの池を見ると、なかなかロマンティックだ。

 横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎はのそばへ来てしゃがんだ。(中略)
 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下がで、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、うちわを額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。(『三四郎』より)

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           三四郎池(正式名称は、育生園心字池)

3、根津神社       f:id:bochandangi:20150104004039j:plain

 創建の由来を読むと、「いまから1900年前・・・」とあったが、そうすると西暦100年ころの話になる。卑弥呼が西暦200年代の人だから、同じ弥生時代の、それよりも100年早い時期になってしまう。う~ん、神話の世界だ。でも、「弥生土器」が近くの東大校内から出土したことになっているから、まんざら作り話ではない気がしてきた。

 この神社もまた、明治の文豪たちがよく立ち寄った場所らしい。漱石や鷗外が腰掛けた(と言う)石もある。東大に近いこの近辺は、学者や文豪が住んでいたわけだから、これもまた本当の話かもしれない。

4、谷中霊園から漱石も食べた団子屋へ

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      徳川慶喜の墓              横山大観の墓                                       

 谷中霊園には、有名人の墓がいくつもある。日本画家の横山大観や、最後の将軍の徳川慶喜。政治家では鳩山一郎も眠っている。ボランティアのおじさんの解説では、慶喜の墓は明治天皇の御陵(桃山陵だ)に似せて造られたと言うことだった。だから、神式なのだそうだ。

 漱石も次の団子屋を訪れる際には、この周辺は散歩しただろうけど、自身の墓は「雑司ヶ谷」にある。

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 「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。『吾輩は猫である

 谷中霊園からほど近いところに「芋坂」という坂があったようだ。いまは下りられない坂で、山手線の架線橋がある。これを渡ると、『吾輩は猫である』に登場する「羽二重」という団子屋さんがある。みんなで入って食してみた。たしかに、漱石が「柔らかくて安い」と書いているとおり、きめ細かい団子だったし、540円で団子2本(醤油とあんこ味)と緑茶が付いていた。甘党の漱石は、きっと「あんこの団子」が好きだったはずだ。だから、胃を壊すんだ!

5、谷中銀座

 日本中に「銀座」とか「銀座通り」なるものが、たんとある。本来、銀銭を「鋳造した場所」をそう呼んでいたはずだが、いまは、お客さんが銀銭を「落としてくれる場所」を呼ぶようになったのだろうか?

 

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      にぎわう谷中銀座         「夕焼けだんだん」からの夕焼け   

  この谷中銀座は、テレビのロケ地で有名になったらしい。まだデビューからわずかの頃の松嶋菜々子、彼女が主演となったNHKのテレビ小説「ひまわり」がそうだ。また、かの仲間由紀恵の「ごくせん」では、近くに住む「ヤンクミ」がよくこの通りを歩いていた。

 もうひとつ、御殿坂から谷中銀座に入るところには「夕焼けだんだん」という階段がある。なかなか、ステキな名称だ。ここに腰掛けて西の方角を眺めると、きれいな夕焼けが見えるからだ。写真は、年末の冬のものだから、太陽が谷中銀座の真上にはなく、ちょっとだけズレている。それでも、多くの人たちがここにたたずんで、夕方を待っていた。漱石は、この夕焼けを見たのかなあ。


6、団子坂と鷗外記念館

  千駄木の方に歩くと、これもまた『三四郎』に登場する「団子坂」がある。三四郎と美禰子らが揃って、菊人形の展示を見学に行く場面だ。そのあと、気分の悪くなった美禰子と二人だけで、しばらく散歩することに。なんとも拙いデートシーンがある。

 の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。
 女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
 「ここはどこでしょう」
 「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
 「そう。私心持ちが悪くって……」
  三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
 「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
  谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。

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    団子坂を上から望む 登り切った先に「鷗外記念館」が立っている

   

 千駄木には、漱石や鷗外のほか、川端康成北原白秋高村光太郎などの多くの文人が住んだ歴史がある。特に、漱石と鷗外は、同じ貸家に住んでいたことは有名だ。もちろん、同居していたのではなく、鷗外の後しばらくして漱石が借りた。その家はもうないが明治村に行ってしまった)、吾輩は猫である』も『坊っちゃん』もこの貸家で執筆されたのだ。千駄木57番地にあった。

 団子坂の上には、「観潮楼」と呼んでいた鷗外の家があったが、現在は、ここに「鷗外記念館」がある。つい最近できたばかりの、きれいな建築物だ。展示もなかなか充実している。一度、足を運ばれるといいです。

7、ライトアップ東京駅

谷根千」とはまったく関係ありませんが、最後にたどり着いた「東京駅」の写真を一枚。

 漱石の晩年に完成した東京駅は、ご存知のように、当時のように復元されて強烈なライトアップをされていた。年末の夜ということもあって、これを一目でもと考える人たちで、ものスゴイことになっていた。

 係員の「列に並んでください!」と「写真を撮るために立ち止まらないでください!」の絶叫がまた、群集心理を煽っているような気がした。この勢いで「原発反対!」を訴えたら、本当に世の中が動くかもしれない。

 それにしても、よく歩いた。漱石もよく歩いたが、私はもうとっくに漱石の年齢を超えている。これでまた、腰痛が悪化する。

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    「立ち止まらないでください」と言われながら撮った東京駅