『坊っちゃん』で語る学校のいま・むかし

夏目漱石の『坊っちゃん』は、明治時代の学校を正確に描写している。この姿と平成のいまを対比して、学校・教育を見つめ直していこうと思う。

閑話休題  アウシュビッツ

◆中欧と呼ばれる国々 町並みと教会

  九月に、ちょっと年齢の古い人には懐かしい響き、「東欧諸国」の4カ国を旅してきた。現在のガイドブックには「中欧」と記されている。もうほとんど死語のような「旧社会主義圏」の国々だ。

 この地域を訪れた人がよく言うように、プラハもブタペストも、町並みが本当に美しい。どうしても、日本の首都の町並みと比べてしまう。「歴史あるもの」を永久に保存するという意識の次元が、おそらく違うのだ。石の文化と木の文化の差なのかもしれない。経済効率ばかりを優先する社会を求めていくのかどうか、そんな意識の相違も関係あるのかもしれない。

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              ブタペスト ドナウ川からの夜景

 

 もうひとつ、やはり教会が荘厳で壮麗だ。日本の寺院も、もちろんいい。こればかりは、比べてみること自体に、あまり意味がないと思う。

 この教会で、夜のバロック音楽のコンサートが催された。教会内にパイプオルガンが響く。バイオリンの音がひろがる。独唱する歌い手の声がこだまする。どこで演奏しているのか、どこで歌っているのかは目で見える。でも、どこから聞こえてくるのかが分からなかった。その響きが、目で見えるところから発せられているとは思えなかったからだ。30分も過ぎたころ、ふと、高~い天窓に目をやった。そのとき、理解した。これら全ての音は、この天窓のかなたからやってくるのだった。つまり、天から降りてくる神の声なのだ。教会音楽の神髄に触れたような気がした。

アウシュビッツの力

 ヨーロッパの九月は観光シーズンだ。ここを「観光地」とはとても呼べないが、アウシュビッツにも、大型バスが次々とやって来る。ただ、日本人にはほとんどお目にかからなかった。

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     ①正面ゲート                ②収容棟群とポプラ

 ①これが、有名な正面入り口のゲートだ。かの「ARBEIT  MACHT  FREI 」の文字が見える。ドイツ語の「ARBEIT(アルバイト)」は、ほとんど日本語になっているが、「労働」だ。「MACHT(マハトと唾を飛ばしながら発音する) 」は、英語で言えば「MAKE」。だから、「つくる」とか「準備する」みたいな意味である。「FREI(フライ) 」は、それこそ「FREE」の意。だから、「働けば自由になれる」と訳されているが、それこそ死ぬまで自由は与えられなかった。

 ②は、たくさんの収容施設棟が並んでいる一帯。現在は、これらの棟内がミュージアムになっている。膨大な遺品や資料写真などが、下の写真のようにそのまま展示されている。

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  ③解放されたとき43000個以上あったという靴    ④同じく3500個あったという鞄

 

 もう少し奥の方へ歩いて行くと、これまた誰もが知る⑥「ガス室」があった。チクロンB⑤を投入するための穴が、天井に見えた。いまは、ここから光が入る。

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     ⑤チクロンBの空き缶                  ⑥ガス室

 

 アウシュビッツは第一収容所。ここから数分のところに、第二収容所のビルケナウがある。下の写真は、多くの人が何度か目にしていると思う。ビルケナウの監視塔に向けて延びる鉄路だ。もちろん、多くのユダヤの人たちにとって、ここが終着駅になっていた。

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      ⑦ビルケナウ第二収容所跡に残る監視塔(監視塔の下で線路は切れている)

 このビルケナウ収容所は、ものすごく広大だ。広大さは、すなわち収容者の数が膨大であったことを語っている。残された建物や復元された建物が少ないだけに、かえって広大さを際立たせているような気がする。

 そして、収容施設内に入った。⑧の三段ベッド。⑨の収容者用のトイレ。まだ、どちらからからも、一人一人の体温が伝わってくるのだ。言葉にできない空気が流れている。そう言えば、アンネ・フランクは、収容施設の入り口付近にベッドを与えられていた。きっと、こんなベッドだったのだろう。寒い冬、人が出入りするたびに「閉めてください」としか言えない自分を責めた。そのアンネは、解放直前で亡くなった。

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     ⑧収容施設内に並ぶベッド             ⑨丸い穴だけがあるトイレ

 

 自分は、それなりに歴史を知っているつもりだった。世界大戦への経緯も、ナチスドイツのことも、アウシュビッツのことも、本や写真からの知識はある程度持っているつもりでいた。

 でも、歴史って、その場に立たなければ分からないことがある。大きさや色や材質や細部の形はもちろん、その場を流れる空気(風)とか、漂う臭いとか。あるいは、かつてそこに居た(暮らした)人々も見ていたであろう、景色や窓から差し込む光までをも感じてみないと分からないことがある。「ホンモノ」だけが持つ力、それに触れないと見えてこないことがある、とでも言うのだろうか。きっと、相手の国を理解するとか、民族の多様性を知るとかも、「その国に立つ、その人に会う」ことから始まるのだ。

 アウシュビッツで、今更ながら、こんなことを教えられた。

◆ドイツと日本

 アウシュビッツで公式ガイドを務める日本人は、一人しかいない。中谷剛さんだ。その中谷さんの本に『アウシュビッツ博物館案内』がある。それを読んで、こんなことを知った。

 ポーランド国会が、アウシュビッツ強制収容所跡地の保存管理を決めたのは、1947年。だから、国立博物館なのである。ただ、その後の保存には困難を極めたという。当然、財政的な問題だ。

 しかし、1970年代末の世界文化遺産の指定もあり、90年代の冷戦終結後に様々な国や組織が、ポーランド政府に財政援助を始めることになった。なかでも、もっとも資金を援助したのが、ドイツだった。1990年以降の10年間に「470万ドル」もの資金が提供されたそうだ。鉄条網の支柱や、冬も見学ができるようにした暖房施設は、その資金から出ている。そして、維持管理のために必要な人的支援にも、もっとも貢献しているのがドイツ人の若者たちだ。毎年、500名以上の若者が、歴史教育の一環として「負の遺産」を守る作業にボランティア参加すると言う。

 ドイツは、かつて軍事的侵略を行った周辺の国からの信頼を、こうして得てきたのだろうか。自分が最も見たくない過去、国民も政府も思い出したくもない記憶を、世界に向かって展示・公開する博物館。その永久保存維持に、金も人も出す。ここからは、「二度と過ちはくり返しませんから」という堅い誓いの声が聞こえてくる。

 日本はどうだろう。思うに、ドイツは「ナチスドイツと現在のドイツとは違う国家なのだ」と宣言しているから、過去の歴史や「負の遺産」に向かいあえる。日本は「1945年までの日本」に、いまだに正対していないのではないのだろうか。