本になりました!
長い長い休止ブログになってしまい、本当に申し訳ありませんでした。
以前の記事で予告しましたように、このブログで「談義」してきた内容が、やっと書籍化されました。
こんな感じの表紙で、4月21日から発売になっています。出版社は大修館書店。
国語・英語・体育などの教科書や関係書籍を発行してきた会社ですが、このような軽~いタッチの文章で書かれた本は珍しいかも。
タイトルは“「坊っちゃん」の通信簿”。坊っちゃん先生を、いろいろな視点から評してみよう、そんな思いで綴った本です。
全部で十章になり、結構なボリュームですが、ブログ時代の軽妙な文章を心掛けたつもりなので、それなりに読みやすいかと思います。
ぜひ手にとっていただいて、ご感想やご意見を寄せてください。
とりあえず、今回はご報告だけです。また、「教育談義」の連載をつづけていきたいと考えています。どうぞ宜しく!
このブログの読者の皆さんへ
今日も東京は36度を越える暑さです。
吾輩の犬(ビビ君)とは、いつもながら朝夕の散歩を欠かせません。でも、ここ数日のこの暑さ。おそらく、練馬区の道路は50度以上あるでしょう。そのせいだと思いますが、散歩する際は、陽の当たる路上を歩くのを拒否します。年老いた肉球へのダメージが大きいのかもしれません。そして、本人の生理的な欲求を満たした途端、みごとな帰宅部となります。冷房の効いた快適な部屋で、ひたすら横になっていることが長生きのコツと心得ているのでしょうか? ただし、この行動。飼い主にとっては、体力温存の手助けにはなっています。もしかしたら、この超短時間散歩もまた、高齢化する飼い主への心遣いなのかもしれません。
ところで、『坊っちゃん』を扱ってきたこのブログ。お陰様で10000近いアクセス数となりました。こんな理屈っぽい、読みやすいわけでもない、誰もが面白がる内容でもないブログなのに、多くのアクセスをいただき嬉しい限りです。
にもかかわらず、今日をもちまして『坊っちゃん』の内容を一端打ち切らせていただきます。まだまだ取り上げるべき内容はいっぱいありますし、談義の途中のものもあって申し訳ないしだいです。それというのも、これも嬉しい話なのですが、この『坊っちゃん』ブログ的教育論のようなものを書籍化する方向で動いているからなのです。
まだ書名も検討中、内容も大幅な書き直しなど、課題は山ほどありますが、正式に決まりましたらブログ読者の皆さんにもお伝えします。このブログの内容よりも読みやすく、さらに深める部分もあり、話の幅も広げる一冊になるよう検討していきます。その節は、宜しくお願いします。
それに伴いまして、ブログページから『坊っちゃん』の内容を削除させていただきますので、ご了承ください。多くの感想や声を寄せていただいた方々、本当に有り難うございました。ひきつづき、漱石や教育や閑話は掲載していきますので、お付き合いください。
閑話休題 スペイン周遊
日本がまだ冬の季節だった2月から3月初め、スペイン東部から南部をちょっとばかり周遊してきました。ちょうど、東京の4月くらいの季節感だったでしょうか。ラテンの太陽は、もうまぶしいくらいでした。
1、バルセロナ
地中海側に面した大都市バルセロナ。オリンピック、ネイマールの所属する「FCバルセロナ」、少し前に話題になった「独立運動」で関心を持っている人もいるかもしれません。
結局、スペインからの「独立」は、住民投票では否決されました。しかし、街は「俺たちはカタルーニャ人」という雰囲気が残っていて、随所にカタルーニャ旗が見られます。
また、ご存知「サグラダ・ファミリア」はこの街にあります。建築家ガウディがやり残した「大工作」は、いまでも続いていて、ガイドさんの話だと、2026年に完成の予定だそうです。私には、どうみても無理としか思えませんでしたが。
この写真の「塔」は、現在8本あります。あと10本が未完成なのだと広報していました。各塔は、それぞれ「イエス、マリア、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、12使徒」を表していて、合計18本になるというのが定説です(だから、サグラダ(Saint)=聖・ファミリア(Family)=家族 → 聖家族教会と言う)。あと10本、本当に10年後に完成するのでしょうか。鉄筋コンクリート製にする工法に変えたから大丈夫だそうですが、工事関係者が、昼休み(シエスタ)に酒を飲むのを控えていく必要があるように思いますが。(異文化に口出し無用ですね)
内部もまた、「荘厳にして独創的」の言葉がピッタリの構造です。
光の取り入れ方がうまい、とヨーロッパの教会を訪れると思います。日本の寺院のように、蝋燭だけの明かりで仏の深遠さを演出するのとは違い、そこに立つ人に光が降り注ぐようになっていると感じます。神とつながっている、という心を演出しているのでしょうか?
完成するという10年後、また訪れられるのかなあ。腰痛が・・・
2、ラ・マンチャ
バルセロナから地中海沿いを南下すると、バレンシア。さらに南に下って、やや内陸に入っていくと「ラ・マンチャ地方」です。「ラ・マンチャの男」なんて聞いて、松本幸四郎を思い浮かべるのは、人生のベテランの人でしょう。もちろん、セルバンテスの「ドン・キホーテ」をミュージカルにしたもの。
この騎士キホーテさん、物語を読みすぎて妄想に耽ってしまうのでした。騎士道を貫く正義のために、サンチョ・パンサを引きつれ、ロシナンテという馬にまたがり遍歴の旅にでる物語。そのなかに、妄想のすえに風車に突撃をかけるシーンがありました。それが、下にある写真の白い風車ですね。(もちろん観光用)
ちなみに、ディスカウントストアーの「ドンキホーテ」。この社名は、巨大な風車に突撃したキホーテさんと同じように、大手の販売業者に果敢に立ち向かっていこうとの会社の思いが込められているのだそうです。これが「妄想」でなければいいけど。
ただし、多くの人が略称で「ドンキ、ドンキ」と言いますが、これは意味的にはダメです。「ドン」は騎士とか貴族とかにつけるもので、名前は「キホーテ」なのですから。日本語で言えば、「征夷大将軍・源頼朝」を「将軍頼、将軍頼」って呼んでいるようなものです。誰だか分からん????
この「ラ・マンチャ地方」をバスで走っていると、次のような写真の風景が延々と続きます。空と畑(牧草地)しかない風景です。地平線の見える北海道のようですね。
そして、もうひとつが、スペインが世界最大の収穫量を誇る「オリーブ」の畑の風景です(下の写真。これ全部オリーブの木です)。2時間走っても、3時間走っても、バスの窓外がこの「オリーブ」ばかり。いくら最初は「ダイナミックだ!」と感心しても、あまりにも変わらない車窓風景に、「いい加減にしろ、オリーブ!!」とか、「こんなに穫れるんなら、もっと安くしろ、オリーブオイル!!」と叫んでしまいたくなるのです。
こういう景色を眺めていると、フランスもイタリアも含めて、ヨーロッパって農業国ばかりだなと思います。
3、グラナダ
さらに南下していくと、飽き飽きしていたオリーブ畑に変わって、シェラネバダ山脈が見えてきました。ヨーロッパでは、この山より南にはスキー場がないそうなので、格好のスキーリゾート地なわけです。2月末だったので、泊まったホテルにもスキーヤーがかなりいました。
この山脈の麓がグラナダ。かの「アルハンブラ宮殿」がある街です。歴史的には、イスラム教勢力に征服されていたスペインで、そのイスラム教勢力が最後の砦にしていた地だと言っていいでしょうか。世界史を覚えていますか?「レ・コンキスタ」。
よく「国土回復運動」とか訳される用語ですね。広大な支配地を持ったイスラム教勢力を、キリスト教勢力がヨーロッパから追放していく戦争です。「レ」は英語のre=再。「コンキスタ」は英語のconquer=征服だから、再征服運動・国土回復運動と訳しているんですね。キリスト教徒による「リベンジ」です。
グラナダは、さっきも書いたように、その「レ・コンキスタ」の最後の地になります。そこにあるのが、イスラム教勢力が築いた「アルハンブラ宮殿」なのです。今回、スペインに行って最も訪れたかった場所でもあります。
美しい宮殿、形式美の最たるもの。左右対称とモザイク模様が入り交じる宮殿。水と花を上手にあしらって、心安らかにさせてくれる。
なんだか、ナルシソ・イエペスの「アルハンブラの想い出」というギター曲が聞こえてくるような世界でした。震えるような「トレモノ」というギターテクニックを駆使して演奏される、本当に素敵な曲です。うん?そんな人、そんな曲は知らないって。映画『禁じられた遊び』の、あのギター名曲を弾いていた人ですよ。なに?もっと知らない?ユーチューブか何かで検索して、聴いてみてください。絶対に「震え」ます。
4、ミハス
また地中海側にでます。実に暖かい。
このミハスという街は、説明によると日本のCMが有名にさせたと聞きました。パンフなどでは、「白い村」と書かれています。次の写真を見ていただけば、本当に「白い」のがよく分かります。
空の青さと地中海の深い青。そして、岡にずっと並ぶ白壁の家々。この対照で、青も白もグーンと浮き上がってくる感じがします。もちろん、地中海に面したギリシャの風景も同じです。日本で言えば、気候がちょっと違うけど、沖縄の空と海の青さと、あのシーサーが載る赤い家々の屋根との関係に似ているかもしれません。
高台にあって、澄んだ空気があって、明媚な風光で、しかも静かな村。「天国に近い村」と言ってよさそうです。「余生はここで」と思ってしまいます。
5、トレド
添乗員さんがこう言っていました。「スペインにたった一度しか行けないとしたら、どこの街を選びますか?と聞かれたら『トレド』と答える」と。
スペインのなかでも、それくらい美しく歴史もある都市だということでしょう。岡(山か)の上に築かれた城郭都市なのですが、たしかに得も言われぬ風情があることは分かりました。遠景が素晴らしい。完全に「絵画」になるし、誰が撮っても「絵になる写真」を手にできそうなのです。なんて言って、下の写真は「絵」になっていますか?
日本では、天空の城「竹田城」が注目を浴びていますが、城郭を再建して、その規模を広げて城下町を都市化したら、このトレドに近づくかもしれません。「そんな、ちっぽけな街にあらず」と、スペイン人に怒られるか?
そして、この街はスペイン画家「エル・ゴレコ」の出身地でもあるので、本当かどうか確信はありませんが、「生家」が残っていてミュージアムになっていました。そして、教会にはわんさかと「グレコ」の絵が置かれています。
6、マドリッド
最後は、首都「マドリッド」。
今回は、ほとんどこの街での時間がなく、目的は「プラド美術館」と「ソフィア王妃センター」だけでした。
首都の中心にある「スペイン広場」
プラド美術館は、あまりにも有名なので言うまでもないでしょうが、ゴヤ、ベラスケス、ラファエロ、エル・グレコ、ティツィアーノ、レンブラント・・・・・の作品の宝庫です。このうちの一作品でも日本に来れば、大騒ぎになる事は必定。たとえば、ゴヤの「裸のマハ」と「着衣のマハ」が来日したら、どうでしょう。3時間くらい列に並んで、絵の前に来たら「鑑賞は足を止めないでください!」と係員に叫ばれて、3秒ほどで通過という事態になるのでは?「足を止めない鑑賞」って、動体視力のテストじゃないんだけどね。
それが地元に行けば、「マハ」の前に立つ人は数名。時間によっては誰もいない。だから、2枚が並んで展示されている「裸」と「着衣」が、10㎝の距離まで近づき、「足を止めて鑑賞」です。でも、たくさんの絵画を鑑賞しすぎて、画家名と作品名がほとんど一致しなくなりました。
マドリッドには、もうひとつの目玉となる絵画があるのです。プラド美術館から歩いて行ける「ソフィア王妃センター」という所にです。それは、下の写真。
ご存知でしょうが、ゲルニカは街の名前。1930年代のスペイン内戦のときに、フランコ将軍に抵抗する勢力がいたゲルニカを、フランコを支援するヒトラーが空爆した街ですね。
そのときの怒りを、ピカソはこの絵にぶつけたという傑作です。体を破壊される民衆だけでなく、馬や牛も描くことで、その「無差別性」を強調したのでしょうか?大きな絵であるだけに、白黒にもかかわらず強烈な迫力でした。
日本の作品との比較で言えば、丸木夫妻による原爆絵画を思い起こす人も多いかもしれません。
スペインは経済的にたいへんな時期にあります。これもガイドさんが言っていましたが、「プラド美術館の絵を売り払えば何とかなるんじゃない?」って。でも、そんな程度のことで経済回復できるような状況じゃないくらい深刻なのだそうです。
日本人みたいに、昼休みはワインを飲むのもやめて、時間も45分にして、もうちょっと懸命に働いたらGDPも上がるんじゃないかと思いますが、それじゃあ、スペインのこれまでの文化も歴史も創られてはこなかったんでしょうね。「文化は、豊かな余裕からしか生まれません」です、きっと。
閑話休題 谷根千の散策
昨年の暮れ、漱石ゆかりの地「谷根千(やねせん)」周辺を仲間たちと歩いてきました。ご存知でしょうが、「谷根千」は「谷中・根津・千駄木」を言います。どうも、雑誌の編集者が名付け親のようです。
谷中は、東京の台東区。根津と千駄木は文京区ですが、下町情緒のある地域として、外国人観光客にも人気がある地域です。
漱石の関係小説にも触れながら、歩いてきたお話しを少しばかり紹介します。
1、東京大学
「谷根千」に入れるのは違うかもしれないが、漱石とは切っても切れない関係にある学校が、この「東大」だ。明治時代の近代大学として出発してから、その名称は「東京大学→ 帝国大学→ 東京帝国大学→東京大学→ 国立大学法人東京大学」と変遷してきた。漱石は、「帝国大学」を卒業したわけだ。
加賀前田家の赤門 正門からつづく銀杏並木
徳川斉昭の娘を迎え入れた際に建造した「赤門」。漱石も、きっと何度もくぐったに違いない。でも、昭和時代の「銀杏並木」を見て、「とめてくれるなおっかさん。背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」なんていう橋本治氏のコピーは、知るよしもない。いや、いまの若者たちにアンケートしても、「意味わかんねえ!」って言われる。
「学園紛争・闘争」も、ある一定年齢の人たちだけの思い出話に近づいているかもしれない。なんてたって、すでに45年以上が過ぎている。その証拠に、「安田講堂」もとても静かだった。学生の火炎瓶(これは古語か?)VS 機動隊の放水(こちらは最近、台湾あたりであったか?)の大攻防戦をリアルタイムで見ていた記憶がある私にとっても、遠い過去の映像だ。漱石先生は、天国からどんな風に見ていたのかなあ。
安田講堂 この時計台の上から火炎瓶が、下から放水が行われた
2、三四郎池
いま朝日新聞では、「こころ」に続いて「三四郎」が連載されている。
主人公の三四郎が思いを寄せることになる「美禰子」に初めて出会うシーンは、この池だった。もちろん、この小説から「三四郎池」なんて呼ばれたわけだ。そんな風にこの池を見ると、なかなかロマンティックだ。
横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。(中略)
ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、うちわを額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。(『三四郎』より)
三四郎池(正式名称は、育生園心字池)
3、根津神社
創建の由来を読むと、「いまから1900年前・・・」とあったが、そうすると西暦100年ころの話になる。卑弥呼が西暦200年代の人だから、同じ弥生時代の、それよりも100年早い時期になってしまう。う~ん、神話の世界だ。でも、「弥生土器」が近くの東大校内から出土したことになっているから、まんざら作り話ではない気がしてきた。
この神社もまた、明治の文豪たちがよく立ち寄った場所らしい。漱石や鷗外が腰掛けた(と言う)石もある。東大に近いこの近辺は、学者や文豪が住んでいたわけだから、これもまた本当の話かもしれない。
4、谷中霊園から漱石も食べた団子屋へ
谷中霊園には、有名人の墓がいくつもある。日本画家の横山大観や、最後の将軍の徳川慶喜。政治家では鳩山一郎も眠っている。ボランティアのおじさんの解説では、慶喜の墓は明治天皇の御陵(桃山陵だ)に似せて造られたと言うことだった。だから、神式なのだそうだ。
漱石も次の団子屋を訪れる際には、この周辺は散歩しただろうけど、自身の墓は「雑司ヶ谷」にある。
「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。『吾輩は猫である』
谷中霊園からほど近いところに「芋坂」という坂があったようだ。いまは下りられない坂で、山手線の架線橋がある。これを渡ると、『吾輩は猫である』に登場する「羽二重」という団子屋さんがある。みんなで入って食してみた。たしかに、漱石が「柔らかくて安い」と書いているとおり、きめ細かい団子だったし、540円で団子2本(醤油とあんこ味)と緑茶が付いていた。甘党の漱石は、きっと「あんこの団子」が好きだったはずだ。だから、胃を壊すんだ!
5、谷中銀座
日本中に「銀座」とか「銀座通り」なるものが、たんとある。本来、銀銭を「鋳造した場所」をそう呼んでいたはずだが、いまは、お客さんが銀銭を「落としてくれる場所」を呼ぶようになったのだろうか?
にぎわう谷中銀座 「夕焼けだんだん」からの夕焼け
この谷中銀座は、テレビのロケ地で有名になったらしい。まだデビューからわずかの頃の松嶋菜々子、彼女が主演となったNHKのテレビ小説「ひまわり」がそうだ。また、かの仲間由紀恵の「ごくせん」では、近くに住む「ヤンクミ」がよくこの通りを歩いていた。
もうひとつ、御殿坂から谷中銀座に入るところには「夕焼けだんだん」という階段がある。なかなか、ステキな名称だ。ここに腰掛けて西の方角を眺めると、きれいな夕焼けが見えるからだ。写真は、年末の冬のものだから、太陽が谷中銀座の真上にはなく、ちょっとだけズレている。それでも、多くの人たちがここにたたずんで、夕方を待っていた。漱石は、この夕焼けを見たのかなあ。
6、団子坂と鷗外記念館
千駄木の方に歩くと、これもまた『三四郎』に登場する「団子坂」がある。三四郎と美禰子らが揃って、菊人形の展示を見学に行く場面だ。そのあと、気分の悪くなった美禰子と二人だけで、しばらく散歩することに。なんとも拙いデートシーンがある。
坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込むように思われる。
女は人込みの中を谷中の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。
団子坂を上から望む 登り切った先に「鷗外記念館」が立っている
千駄木には、漱石や鷗外のほか、川端康成、北原白秋、高村光太郎などの多くの文人が住んだ歴史がある。特に、漱石と鷗外は、同じ貸家に住んでいたことは有名だ。もちろん、同居していたのではなく、鷗外の後しばらくして漱石が借りた。その家はもうないが(明治村に行ってしまった)、『吾輩は猫である』も『坊っちゃん』もこの貸家で執筆されたのだ。千駄木57番地にあった。
団子坂の上には、「観潮楼」と呼んでいた鷗外の家があったが、現在は、ここに「鷗外記念館」がある。つい最近できたばかりの、きれいな建築物だ。展示もなかなか充実している。一度、足を運ばれるといいです。
7、ライトアップ東京駅
「谷根千」とはまったく関係ありませんが、最後にたどり着いた「東京駅」の写真を一枚。
漱石の晩年に完成した東京駅は、ご存知のように、当時のように復元されて強烈なライトアップをされていた。年末の夜ということもあって、これを一目でもと考える人たちで、ものスゴイことになっていた。
係員の「列に並んでください!」と「写真を撮るために立ち止まらないでください!」の絶叫がまた、群集心理を煽っているような気がした。この勢いで「原発反対!」を訴えたら、本当に世の中が動くかもしれない。
それにしても、よく歩いた。漱石もよく歩いたが、私はもうとっくに漱石の年齢を超えている。これでまた、腰痛が悪化する。
「立ち止まらないでください」と言われながら撮った東京駅
閑話休題 我輩の犬である
犬は幸せか?
我が家には、13年前から犬がいる。名前はまだある。「ビビ」君だ。だから、オスである。そして、もう13歳。だから、確実に老犬である。
ビビ君近景 お行儀のいいビビ君
ビビ君は、捨て犬である。写真でも分かるように、ビーグルと何かのハーフとして生まれている。スヌーピーには、なれなかったのだ。それで、純血種でなかったがゆえに、悪徳ブリーダーが捨てたのかもしれない。
このハーフを家に連れてきてから、もう13年。ずいぶんと時間が経った。人間年齢では、いつのまにか、そして確実にご主人の齢を抜き去った。我が家にやって来たころは、若々しいジャニーズ系のイケメンだった。しかし現在の彼は、被毛は白髪だし、目は白内障だし、耳は遠いし、ご飯を食べたことも忘れて、もっと寄越せとばかりに吠えたりもする。昼間から寝てばかりでもある。数年後の我が身を見るようだ。
それでも、まだまだ足は速いし、ボールを追いかけて全力で走る。しかし先日の散歩中、視野狭窄のせいか、前方への注意を怠って電柱に頭をぶつけていた。我が教訓ともしたい出来事だった。
こんなビビ君だが、ここまでの犬生は幸せだったのか?
「拾ってやっただけ有り難いと思え」なんて、とても言えない。きっと、「もっと高級なドッグフードにしろ!」と思っている。「人間の古着なんぞを敷物にするな。ペットショップのピンクのマットを買え!!」と文句を言いたい(いや、吠えたい)はずだ。「メリットシャンプーなんかを使うから、背中がかゆいんだ。人間みたいにフケなんか出やしない!」と、高価な犬用薬用シャンプーをケチる主人を非難しているに決まってる。
ただ、ご主人様にとって、ビビ君とのお散歩は「哲学の時間」だ。このブログに書くことを考えたり、明日やるべきことのアイディアを構想したり、ときに夕飯のカレーに入れる調味料の混合比を計算する。そんな「小さな哲学の道」を共に歩くのだ。
そして、もうひとつ。ビビ君とのお散歩は、人との交流の場を与えてくれる。「ママ友」ならず、「犬友」だ。ちょっとだけ挨拶する、それだけの時間だが、ここで出会う人たちの笑顔は、いつもやさしい。
犬って、本当に幸せかどうかは分からない。でも、ご主人様に与える「時間」や「場」が素敵なものならば、「それでいいんだワン」と思っているかもしれない。
漱石の猫と我が輩の犬
漱石の家に猫が迷い込んで、それを漱石が飼うことになる。この猫こそが、デビュー作「吾輩は猫である」の猫だ。有名な話であるが、この猫が漱石家の隣の家に迷い込んでいたら、名作も文豪も誕生しなかったかもしれないのだ。
そう言えば、この猫はしゃべる。人間には聞こえないが、相当な教養の持ち主であることがわかるくらい、見事にしゃべる。それが全く不思議でないと思わせてしまうから、漱石の筆力はスゴイ。いや、実は動物は、本当にしゃべっているんじゃないか?
実際、「我が輩の犬」も、間違いなくしゃべる。
知らんふりするビビ君 飽き飽きするビビ君
ビビ君は、ご飯を「ゴハン」と三語で言う(いや吠える)。水が欲しいときは、「ミズ」と二語で言う(いや吠える)。これは、何度も試したから絶対に間違いない。そして、夜中にお腹が痛くなると、「イターイ、イターイ」と、喉の奥から空気を漏らすような声で訴える。雨の日の散歩は、「イカナーイ」と間延びした音で、複数回鼻の穴を鳴らす。濡れたくない、と言っているのだ。「お前は人間か!」と怒鳴りたくなる。
ビビ君は、いや犬は、確実に人とのコミュニケーションを「母語」でとっている。日本人の主人なら、「日本語」で会話をするし、「日本語」で心を理解していると思うのだ。上の写真を見ても、「ブログに載せる写真を撮るぞ」と言えば、「ボクにも肖像権がある」とばかりに、知らんぷりだ。そして、こんな記事を書いていれば、「つまれねえなあ」と大あくび。なんてヤツだ。思わず、人として対応してしまった。
あと、どのくらい一緒の時間がつづくのか? まあ、お互いがボケてしまうなら、散歩がてらの、かみ合わない会話が続くのだろう。
閑話休題 アウシュビッツ
◆中欧と呼ばれる国々 町並みと教会
九月に、ちょっと年齢の古い人には懐かしい響き、「東欧諸国」の4カ国を旅してきた。現在のガイドブックには「中欧」と記されている。もうほとんど死語のような「旧社会主義圏」の国々だ。
この地域を訪れた人がよく言うように、プラハもブタペストも、町並みが本当に美しい。どうしても、日本の首都の町並みと比べてしまう。「歴史あるもの」を永久に保存するという意識の次元が、おそらく違うのだ。石の文化と木の文化の差なのかもしれない。経済効率ばかりを優先する社会を求めていくのかどうか、そんな意識の相違も関係あるのかもしれない。
ブタペスト ドナウ川からの夜景
もうひとつ、やはり教会が荘厳で壮麗だ。日本の寺院も、もちろんいい。こればかりは、比べてみること自体に、あまり意味がないと思う。
この教会で、夜のバロック音楽のコンサートが催された。教会内にパイプオルガンが響く。バイオリンの音がひろがる。独唱する歌い手の声がこだまする。どこで演奏しているのか、どこで歌っているのかは目で見える。でも、どこから聞こえてくるのかが分からなかった。その響きが、目で見えるところから発せられているとは思えなかったからだ。30分も過ぎたころ、ふと、高~い天窓に目をやった。そのとき、理解した。これら全ての音は、この天窓のかなたからやってくるのだった。つまり、天から降りてくる神の声なのだ。教会音楽の神髄に触れたような気がした。
◆アウシュビッツの力
ヨーロッパの九月は観光シーズンだ。ここを「観光地」とはとても呼べないが、アウシュビッツにも、大型バスが次々とやって来る。ただ、日本人にはほとんどお目にかからなかった。
①正面ゲート ②収容棟群とポプラ
①これが、有名な正面入り口のゲートだ。かの「ARBEIT MACHT FREI 」の文字が見える。ドイツ語の「ARBEIT(アルバイト)」は、ほとんど日本語になっているが、「労働」だ。「MACHT(マハトと唾を飛ばしながら発音する) 」は、英語で言えば「MAKE」。だから、「つくる」とか「準備する」みたいな意味である。「FREI(フライ) 」は、それこそ「FREE」の意。だから、「働けば自由になれる」と訳されているが、それこそ死ぬまで自由は与えられなかった。
②は、たくさんの収容施設棟が並んでいる一帯。現在は、これらの棟内がミュージアムになっている。膨大な遺品や資料写真などが、下の写真のようにそのまま展示されている。
③解放されたとき43000個以上あったという靴 ④同じく3500個あったという鞄
もう少し奥の方へ歩いて行くと、これまた誰もが知る⑥「ガス室」があった。チクロンB⑤を投入するための穴が、天井に見えた。いまは、ここから光が入る。
⑤チクロンBの空き缶 ⑥ガス室
アウシュビッツは第一収容所。ここから数分のところに、第二収容所のビルケナウがある。下の写真は、多くの人が何度か目にしていると思う。ビルケナウの監視塔に向けて延びる鉄路だ。もちろん、多くのユダヤの人たちにとって、ここが終着駅になっていた。
⑦ビルケナウ第二収容所跡に残る監視塔(監視塔の下で線路は切れている)
このビルケナウ収容所は、ものすごく広大だ。広大さは、すなわち収容者の数が膨大であったことを語っている。残された建物や復元された建物が少ないだけに、かえって広大さを際立たせているような気がする。
そして、収容施設内に入った。⑧の三段ベッド。⑨の収容者用のトイレ。まだ、どちらからからも、一人一人の体温が伝わってくるのだ。言葉にできない空気が流れている。そう言えば、アンネ・フランクは、収容施設の入り口付近にベッドを与えられていた。きっと、こんなベッドだったのだろう。寒い冬、人が出入りするたびに「閉めてください」としか言えない自分を責めた。そのアンネは、解放直前で亡くなった。
⑧収容施設内に並ぶベッド ⑨丸い穴だけがあるトイレ
自分は、それなりに歴史を知っているつもりだった。世界大戦への経緯も、ナチスドイツのことも、アウシュビッツのことも、本や写真からの知識はある程度持っているつもりでいた。
でも、歴史って、その場に立たなければ分からないことがある。大きさや色や材質や細部の形はもちろん、その場を流れる空気(風)とか、漂う臭いとか。あるいは、かつてそこに居た(暮らした)人々も見ていたであろう、景色や窓から差し込む光までをも感じてみないと分からないことがある。「ホンモノ」だけが持つ力、それに触れないと見えてこないことがある、とでも言うのだろうか。きっと、相手の国を理解するとか、民族の多様性を知るとかも、「その国に立つ、その人に会う」ことから始まるのだ。
アウシュビッツで、今更ながら、こんなことを教えられた。
◆ドイツと日本
アウシュビッツで公式ガイドを務める日本人は、一人しかいない。中谷剛さんだ。その中谷さんの本に『アウシュビッツ博物館案内』がある。それを読んで、こんなことを知った。
ポーランド国会が、アウシュビッツ強制収容所跡地の保存管理を決めたのは、1947年。だから、国立博物館なのである。ただ、その後の保存には困難を極めたという。当然、財政的な問題だ。
しかし、1970年代末の世界文化遺産の指定もあり、90年代の冷戦終結後に様々な国や組織が、ポーランド政府に財政援助を始めることになった。なかでも、もっとも資金を援助したのが、ドイツだった。1990年以降の10年間に「470万ドル」もの資金が提供されたそうだ。鉄条網の支柱や、冬も見学ができるようにした暖房施設は、その資金から出ている。そして、維持管理のために必要な人的支援にも、もっとも貢献しているのがドイツ人の若者たちだ。毎年、500名以上の若者が、歴史教育の一環として「負の遺産」を守る作業にボランティア参加すると言う。
ドイツは、かつて軍事的侵略を行った周辺の国からの信頼を、こうして得てきたのだろうか。自分が最も見たくない過去、国民も政府も思い出したくもない記憶を、世界に向かって展示・公開する博物館。その永久保存維持に、金も人も出す。ここからは、「二度と過ちはくり返しませんから」という堅い誓いの声が聞こえてくる。
日本はどうだろう。思うに、ドイツは「ナチスドイツと現在のドイツとは違う国家なのだ」と宣言しているから、過去の歴史や「負の遺産」に向かいあえる。日本は「1945年までの日本」に、いまだに正対していないのではないのだろうか。
1 夏目漱石『坊っちゃん』で教育談義
1、漱石ブーム
『こころ』につづいて、『三四郎』『それから』が朝日新聞に再連載されている。
「漱石山房」の再建計画も進められている。新宿区にあった、漱石が終焉を迎えた家だ。早稲田大学文学部の近くにある、「漱石公園」のところに再建するようだ。
百年前に亡くなった漱石さん、このブームをどう見ているのだろう。皮肉屋さんだから、「また金儲けを企んでいる輩がいる」と見るか、「百年前に書いたことがまだ通用する世の中なのか」とおっしゃるか。
ぜひぜひ、タイムスリップしてきていただき、インタビューしてみたい。
2、『坊っちゃん』がスゴイ
こんなことは誰でも知っているが、漱石は長い間教師をやっていた。だから、多くの小説に「学校」と「先生」が登場する。『こころ』なんて、全部が「先生」の話だ。『三四郎』だって、舞台は大学で、主たる登場人物は先生と学生。もちろん、どれも深~い人間の心理を描いたわけで、単なる「学園ドラマ」でないことくらい、これまた誰でも知っている。
ところが『坊っちゃん』。多くの人が、一度は読んだことがある小説だろう。そして多くの人が、正義感の強い、単純明快な坊っちゃん先生がくり広げる、痛快時代劇のような作品として読んでいる。そう、「学園ドラマ」のように。
たしかに、そういった面はあるはずだ。でも、そんな単純な小説でないことは、再読すると分かってしまう。何と言っても、漱石先生自身が全作品を振り返って、弟子の一人にこう言っているんだ。
漱石「ときどき、自分のふるいものを読みかえすと大変ためになるものだね。このあいだ、何の気なしに読みかえして見て、だい分、読んで見たが、いま読むと、自分のいいとこ、悪いとこがはっきりわかるね。」
江口「先生はどれが、一番いいとお思いになりました。」
漱石「坊っちゃんなんか、一ばん気持ちよく読めたね。」
この「気持ちよく読めた」は、「いいとこ」のある「いい」作品だという意味にとって「いい」のだろう。社会や文明や人の心の機微を描いて、名作とされる作品をあんなに書いてきた人が、「一番いい」としたのは『坊っちゃん』なのだ。
3、『坊っちゃん』で居酒屋的な教育談義を
それなら、この「一番いい」とされた『坊っちゃん』を話のネタにしない手はない。何のネタにか。
『坊っちゃん』は、『二十四の瞳』のような「教育小説」ではないし、『金八先生』のような「学園ドラマ」でもない。「学校小説」だ。舞台は学校(旧制中学校)、登場人物はその学校の先生たち。しかも、その描写(事件も人物像も背景も)が面白い。そして、何よりも正確だ。もちろんその理由が、漱石自身が松山中学の先生だったからであることは、またまた誰でも知っている。
そこで、この正確に描かれた「明治時代の学校のことや先生のことや出来事」を話のネタにしよう。それを「現代の学校や先生や出来事」と対比してみよう。今の教育を考える、いいネタになりそうだ。できれば、居酒屋に行って、この話題でワイワイと「教育談義」がしたいものだ。自由に、きままに。
そんなところから、これからの学校とか、理想の先生像とか、教育の在り方とかが見えてくのかもしれない。さらに、当時の変わりゆく社会や、人々の心や、正義とは何かとか、漱石先生が「一番いい」とおっしゃった『坊っちゃん』の、その本質にも触れられるような気もしてきた。やはり、居酒屋には漱石先生も呼んで、教育談義に花を咲かせたいと思ってしまう。
さて、それでは『坊っちゃん』を読みながら、居酒屋教育談義を始めましょう!
みなさんも、文庫本『坊っちゃん』を片手に、この席に大いに参加してください。